2012年を迎え,季節は3月となりました。卒業,進学の便りも聞こえてくる季節です。当事務所一同,各人が一層精進し,職務に専念する中で,チームとしての力を結集し,皆様の期待にお応えしてまいります。
さて,昨年の3.11東日本大震災から間もなく1年になろうとしています。昨日の3月4日,津波の被害を受けた石巻市の大川小学校で一周忌法要が営まれたとの報道がありました。同小学校では全校児童の約7割が死亡・行方不明(70人死亡,4人行方不明)となっています。誰もが想像していなかった惨事となりました。子どもたちがどれほど怖い思いをし,水や土砂に揉まれ,吸い込み,どんなに苦しい思いで亡くなったか,幼い命と未来とが成す術もなく奪われた痛ましさ,子を失った家族・遺族の悲痛は,私たち(東京にあって震災による身命に及ぶ打撃を免れた私たち)に,圧倒してあまりある過酷な現実として迫ります。軽々に表現できることではありません。
亡くなった子どもたち,当の家族・遺族という,あえていえばそのような「他者」の存在は,特にそれが報道などで顔,姿,言葉をもって映像として立ち上がるとき,私たちに何を呼び覚まし,もたらすのでしょうか。そこには,「他者」を目の当たりにした私たちの直観的な心情に加え,少なくとも「他者」に対する私たちの責任という「倫理」の問題(他者のためにどのように自分が生きるのかという問題)を提起することになります(「他者」との倫理的な関わりを考えた先哲のひとりがエマニュエル・レヴィナスでした。彼自身,第二次大戦中,ドイツの捕虜となり,後に家族・親族の多くがユダヤ人大量虐殺の犠牲になったことを目の当たりにするという当事者としての過酷な体験を持ちます。)。単に歴史的な出来事とか,災害対策のための用材に消化しきることがないよう,心がけたいと願うものです。
また,東日本大震災に関しては,東電原発事故による放射線被害という問題があります。私も,書店に並んでいる「プロメテウスの罠」朝日新聞特別報道部著を改めて手に取った1人です。放射線被害が深刻化していく経過に何があったのか,ある程度時間を経ることでようやく姿を現す事実や経過もあるかと思います。そのような事実や経過も,単に,歴史化するのでなく,また政治的討論や批評の素材だけにとどめることなく,今後も注意して見ていきたいと思います。それは,おそらく世代間倫理(今の世代の人間には未来の人間に対する義務があるかという問題。現代倫理の1課題であることは,従前から論じられています。),とりわけ放射線被害という資源・環境に関わる問題としての世代間倫理に連関しています。
ちなみに,世代間倫理という点は,その意味を多少敷衍することになりますが,例えば,昨年来のギリシャ危機(国として債務が正常に支払できないデフォルト状態にあると評価されています。)に伴う社会・経済の混乱が,若年世代に新たな貧困層≠生み,すさまじい失業率につながっているという報道などを見ていて,私の中で思い起こさずにはいられない問題のひとつでした。現在の閉塞的な国内の情勢に目を転じても,今後,様々な局面で,議論され得る観点のひとつだと思います。
少々長くなりました。最後になりますが,倫理の問題は,いずれも個人の自由な志向的課題というのが本質だと思います。しかし,自己・他者という文脈は,自己が,他者から見れば,他者に転じ,つまり利用対象となり得るという面があります。個人の自由に本質を持つ倫理という問題を政治利用しようとか統制的に使おうという人たちが目立つことのない日本であり社会であってほしいですね。